(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲240),(甲84),(甲240),(甲240),a(甲240),(甲240),(甲240),b(甲240),c(甲272,333,340,341),d(甲340,341)に対し,いずれも,「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面を交付し(甲189,乙120〜123。ただし,いずれも,記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。),また,「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書(甲89,112,172,乙80。ただし,いずれも,記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)を発行し,歌川國播(甲172),歌川國昌(乙80の1。ただし,記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。),歌川國奥(乙80の2。ただし,記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。),歌川國蝦(乙80の3。ただし,記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。),歌川国越(甲112・5頁),歌川国相(甲112・4頁),歌川国峯(甲89),歌川国美(甲112・6頁),歌川国陽(甲112・6頁),歌川国梅(甲112・6頁),歌川国京(甲112・6頁),歌川国蝦(甲112・6頁),歌川国齋(甲112・6頁),歌川国文(甲333),歌川國伸(甲334),歌川国真(甲340,341),歌川國聖(甲235),歌川國佐(甲235),歌川國也(甲338),歌川國喜(甲336),歌川國富(甲337),歌川國雪(甲335),歌川國普二(甲339),歌川国桜(甲112・3頁),歌川国蓮(甲112・4頁),歌川国桃(甲112・4頁)の各命名書を与えた。
もっとも,平成2年以前の時期に旧控訴人作成の「歌川会及親族名簿」に「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面を交付したとの点は,援用にかかる甲239もこれを認めさせるに足りない。
また,平成2年11月3日以前の時期に歌川國聖,歌川國佐,歌川國也,歌川國喜,歌川國富,歌川國雪,歌川國普二,歌川国桜,国蓮,国桃に当該名を与えたとの点は,援用にかかる甲235,甲335,甲337,甲338,甲339が控訴人主張の平成2年11月3日以前の時期に当該名を与えたとの点につき内容が正確であるのか疑問があり,甲112が控訴人主張の時期の記載がなく,これを認めることができない。
各受領者個人は,「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面につき100万円,「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書につき300万円を被控訴人の秘書的立場にあるに交付した。旧控訴人は,許状や命名書の発行については,対価を受領しておらず,上記交付金は,がプールし,浮世絵の購入代金の支払い等の一部に充てられた(証言)。
平成2年11月3日,旧控訴人の描いた絵画「二人静」(甲13の2)が160万円で購入され,平成3年夏,舞妓の絵4枚「春の宵」・「舞妓」・「舞妓」・「紅葉」が160万円で購入され,平成4年1月,「金閣寺」が購入され(甲36,証言),合計6点が売り渡されたほか,被控訴人の入手した浮世絵の鑑定(甲243)を行って,わずかな手数料で鑑定書を発行していたが,上記浮世絵は,被控訴人の指示により「歌川派門人会」のメンバーが鑑定書付で販売していた。
平成6年4月6日に宮崎県立総合博物館で開催され旧控訴人も出席した「二百年の伝統を誇る歌川派門人展」の図録に歌川派始祖豊春〜初代・二代・三代・四代・五代豊国の絵画が順次掲載され,六代豊國として旧控訴人の絵画が2点掲載され,画伯と記載されて被控訴人の絵画や歌川国奥・国梅・国京等の絵画が掲載された。平成6年6月,デンマークのコペンハーゲンにおいて旧控訴人も出席した歌川派門人会主催の浮世絵展が開催され,この時から,被控訴人は,歌川家の家系とは何の関係もなく,かつ,旧控訴人の命名もなく,「歌川」の雅号が与えられ場合に「国正」のように先行するのが通常である「国」の字が後ろに置かれた「歌川正国(しょうこく)」を名乗るようになった。上記浮世絵展において,「FAMILY TREE OF THE UTAGAWA SCHOOL」と題され,歌川派の系図を英文表記したものに,被控訴人を示す「SHOKOKU」の名等が歌川派門人会員として付加された本件系図が会場に展示され,同系図の記載されたパンフレットが発行された。さらに,平成6年7月にアルメニア共和国における歌川派門人会主催の「日本を愛したゴッホを偲ぶ歌川派浮世絵展」,同年9月に米国アラバマ州バーミンハム市における歌川派門人会主催の「歌川正国展」が開催され,また,平成7年2月にノルウェーのオスロで開催された上記と同様の浮世絵展において,再び前記系図の入ったパンフレットが発行され同年7月にロシア国立プーシキン美術館における歌川派門人会主催の「歌川正国展」,同年9月にロシア国立エルミタージュ美術館における歌川派門人会主催の「歌川正国展」がそれぞれ開催され,雑誌「芸術倶楽部」同年9〜10月号に「ゴッホの愛した浮世絵と歌川正国展」が特集として掲載された(乙192)。被控訴人は,同年12月出版された著書(「科学から芸術へ」)において,雅号「歌川正国」を有すると表示した上で,被控訴人が一部宗教団体から迫害や圧力を受けており,そのために,同人の情報が止められているので,浮世絵の力を借り,歌川派の力をもって新たな情報ネットワークを作り出すという趣旨の記述をなし(甲50・146頁3行目〜),また,同月10日から平成8年1月28日まで全国5か所で合計7回にわたり「写楽の真実」と題する旧控訴人の歌川家に伝わる家伝を基に引き写した形の講演会を歌川正国名で開催した。旧控訴人は,平成8年1月11日,被控訴人に宛てた葉書で,上記著書の内容の一部を賞賛したほか,息子と旧控訴人との日展入選,旧控訴人のノーベル賞受賞への援助を求め(乙40),翌12日,被控訴人あての手紙で,300万円の協力金要請をした(乙41)が,同月22日,被控訴人に対し,歌川派の名称及び家紋の使用を禁ずるとともに,被控訴人と歌川派とは関係がない旨を通知し(甲62),同月27日,歌川派門人会の会員28名に対して,系図問題を取り上げて,上記無関係通知を承服するか否かの返答を求めた内容証明郵便を発送し(甲108),同年2月3日,旧控訴人に従わないに対して「破門状」を発送し(乙42),同月9日,らに除名通知を発した(甲109)。被控訴人は,平成8年3月15日発行の機関誌「ジャポニスム」やインターネットのホームページ上などにおいて歌川正国の表示をし,平成9年にロシアにおける歌川派門人会主催の「ヴァン・ゴッホの日本浮世絵と現代日本歌川派の伝統」を開催し,現在も前記書籍の販売を続け,旧控訴人は,平成9年8月21日付内容証明郵便(甲63の1)において,被控訴人に対し,「歌川正国」その他「歌川」姓を冠した氏名の使用及び表示を中止するよう求め,被控訴人は,同年9月1日付内容証明郵便(甲64)による回答において,上記求めに応じない意思を明らかにしている。
(4) 周知性 上記事実によると,旧控訴人は,自ら「六代豊国」を名乗り,昭和47年の日本画「牡丹」以降,昭和48年,昭和49年,昭和55年〜昭和62年,平成4年,平成5年,平成7年,平成9年と「六代豊国」として作画活動をし,写楽に関する家伝を基にした研究により「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』六代・豊国が検証した」を執筆・出版し,昭和58年頃,浮世絵の鑑定書を書き(甲260),昭和61年,平成8年に各講演をし,平成2年11月3日ころから,被控訴人の要請を受け,同人の推薦する者に対し,「歌川派門人」として遇する旨の許状を発行し,また,「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書を発行したところ,「歌川派」は,江戸時代後期から続く浮世絵の一流派であり,江戸期ではその呼び名を「歌川一門」やその系統ごとに「歌川○○社中」といい,幕末において,実力と人気において著名・周知であったといえるところ,豊春ー豊広ー広重の系列は,四代広重(大正14年没)でほぼ活動が終わったといえ,豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳の系列は,国峰が国貞派の「最後の浮世絵師」といわれて昭和18年2月15日に死亡した(甲211)後,昭和19年,豊重派の国松が歌川豊國に連なる「最後の浮世絵師」といわれて死亡したことにより途絶え,現在,国貞派三代豊國の系統の歌川家,豊重派の旧控訴人方の歌川家の系統があり,そのほか,国貞派で国貞系と拮抗した国芳系の芳年に連なる水野年方,鏑木清方,伊東深水らの流れがあるということができる。
しかしながら,控訴人主張の「歌川会派」(甲235)の存在は,これに沿うが如き甲231の4,235,335〜339も実体のある組織の存在を認めさせるものでなく,同会の存在を認めさせるに足りず,「歌川派門人会」は,被控訴人が会長であった前記内容の組織であって,同会が旧控訴人の主催する組織であるとの主張事実に沿うが如き甲222も同主張事実を認めさせるものでなく,同主張を認めることができず,「歌川豊国興隆会」は,平成11年7月以降に設立され,平成14年3月21日,7代目歌川豊國襲名披露と個展を行い,これが国際浮世絵学会会報第23号に掲載され,これに,同学会の会長・理事・事務局員等,日本画家,三代歌川豊国家の現在の当主e(「歌川豊国興隆会」の名誉顧問),四代歌川豊国の生家のg家の当主g(「歌川豊国興隆会」の名誉会員),衆議院議員,元弁護士会長,新聞社営業推進本部長,芸術誌代表者など22名のほか,一般人37名が出席し,上記学会の理事長・理事等,大阪市長,府会議員,新聞社編集局長・記者,美術誌編集部員など27名,一般人45名が欠席したものの会に賛同する趣旨のメッセージを寄せ,図録『歌川派二百年と七代目豊國』を発行し,また,承継人が校長を務める浮世絵教室が企画・設立されるとの案内書その他の書類が作成されたことが認められる(甲211,231,273〜276,328,329,342〜367。【231の1・2・4・5・7〜9・14,273,328,329の成立は認める。】)が,それ以外に具体的活動がされたことを認めるに足りる証拠はない。
そうすると,「歌川派」が同時代に著名・周知であったのは幕末であり,少なくとも,昭和19年には歌川姓を名乗る浮世絵師の活動はなくなり,「歌川派」の同時代における著名・周知性は消滅し,単に歴史的に著名・周知となったというべきところ,旧控訴人は,昭和47年9月以来,自ら「六代歌川豊国」を名乗り,昭和47年「牡丹」,昭和48年「舞妓」,昭和49年「菖蒲」の歌川豊国としての各日本画の作画,出品を皮切りに,昭和50年以降「美術家名鑑」や「美術年鑑」などの年鑑誌に六代目歌川豊国として掲載されるようになったほか,日本浮世絵協会の会誌「浮世絵芸術」に六代目歌川豊国として寄稿する等し,昭和51年11月25日には大阪市長より浮世絵芸術の理解と普及に寄与したことに対する表彰を受け,昭和53年2月以降,各地で展覧会や講習会を開催し,昭和63年3月には「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍(以下,「写楽の実像」という。)を出版して六代目歌川豊国として知名度を高めていたことが窺えるが,昭和62年以降平成4年の間,めぼしい作画活動が見あたらず,展覧会が昭和62年以降平成7年の映画館布施東劇ロビーにおいて開催された「六代歌川豊国浮世絵展」まで開催されず,新聞の報道も平成元年以降平成6年の読売新聞の報道まで途絶え,雑誌等でも,昭和63年,「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍が出版され,「関西文学」11月号に,「六代歌川豊國」の名で,旧控訴人が自著を紹介する記事が掲載された後,平成7年3月18日付「サタデースペシャル」に,旧控訴人が,「浮世絵師」と紹介されるまで記事が掲載されず,講演等も昭和61年以降平成8年までなく,平成2年の時点前後にホームページに掲載されていないのであって,画家としての六代目歌川豊国の知名度は,前記活動とあいまち継続して展覧会が行われた昭和62年までの時点で高かったとしても,平成2年の時点で高かったとは断定できず,なお,美術年鑑誌には多数の画家の氏名が記載されているから,平成2年の時点前後で旧控訴人の氏名が記載されている美術年鑑誌のあったことを考慮しても,知名度が高かったとは認められず,事実審口頭弁論終結時に最も近い旧控訴人が死亡した平成12年の時点を考えても,平成4年,平成5年,平成9年以外めぼしい作画活動が見あたらず,展覧会が平成9年に開催された以後,平成12年10月11日から17日に大丸心斎橋店において開催された「歌川豊国展」も具体的内容が明らかでなくて旧控訴人の作品が展示されたのか不明であって展覧会の開催がなく,新聞の報道も平成8年3月から6月に集中的に定時制高校に合格した93歳の浮世絵師という点にニュース性を認めこれに重点を置いたといえる内容の記事が掲載されたほか,平成9年に1回,平成11年2月と5月に各2回記事が掲載されたのみであり,講演等も平成8年以降なく,雑誌でも,平成8年に3回,平成9年に2回,平成10年に3回,平成11年に5回,平成11年に6回記事が掲載されたものの,平成8年の週刊読売と週刊現代,平成11年の週刊女性と潮,平成12年の経済界,正論,週刊女性自身以外,発行部数が多いとは断定できない雑誌を含め,数誌に単発的に,しかも,96歳の高齢で大学に入学した向学心に燃えた老人という点にスポットライトを当てた記事が掲載されたにすぎず,平成8年,11年,13年に数回,上記雑誌での内容と同様がホームページに掲載されたにすぎなかったのであって,画家としての六代目歌川豊国の知名度は,平成12年の時点で高かったとは断定できず,なお,美術年鑑誌には多数の画家の氏名が記載されているから,平成12年の時点前後で旧控訴人の氏名が記載されている美術年鑑誌のあったことを考慮しても,知名度が高かったとは認められないから,平成2年,平成12年の時点で六代目歌川豊国という表示が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められず,また,同各時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められない。
なお,旧控訴人は事実審口頭弁論終結時前に死亡しているところ,控訴承継人の七代目歌川豊国としての知名度が高かったことは,2002年版「美術家名鑑」,同「美術名典」,同「現代藝術名鑑」,BienMay/Apr2002に控訴承継人が七代目歌川豊国として掲載されたこと(甲323〜326)や上記歌川豊国興隆会の活動等をもってしてもこれを認めさせるに足りず,他にこれを認めるに足りる証拠はないから,事実審口頭弁論終結時において七代目歌川豊国という表示が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められず,また,同時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められない。
そして,著名な浮世絵研究家等の菊地貞夫(甲37),吉田漱(甲38,甲211),藤原秀憲(甲39),林美一(甲47),楢崎宗重(甲135),酒井信夫(甲136),山口桂三郎(甲348),新藤茂(甲348)による承認,浮世絵を取り扱う画商による証明(甲40,41,42,45,46)は,当該研究家,画商が旧控訴人を六代目歌川豊国として承認・支持することが認められるとしても,これにより,不正競争防止法上の周知性の法的判断が左右されるわけでなく,上記結論を左右しない。
よって,控訴人の不正競争防止法2条1項1号及び同法3条に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は,いずれも,認められない。
3 争点3(著名性) 前記のとおり,「歌川派」が同時代に著名・周知であったのは幕末であり,少なくとも,昭和19年には歌川姓を名乗る浮世絵師の活動はなくなり,「歌川派」の同時代における著名・周知性は消滅し,単に歴史的に著名・周知となったというべきであって,平成2年,平成12年,口頭弁論終結時の各時点で六代目,七代目歌川豊国という表示が旧控訴人,控訴承継人の主宰する浮世絵の流派又は同人らの活動を表示する営業表示として著名であったとまでは認められず,また,同各時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同人らの主宰する浮世絵の流派又は同人の活動を表示する営業表示として著名であったとまでは認められない。
よって,控訴人の不正競争防止法2条1項2号及び同法3条に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は,いずれも,認められない。
4 争点4(系図についての不法行為) 前記認定事実及び甲54によれば,次の事実が認められる。
平成6年6月,デンマークのコペンハーゲンで開催され旧控訴人も出席した歌川派門人会主催の浮世絵展において,本件系図が会場に展示され,同系図の記載されたパンフレットが発行され,また,平成7年2月にノルウェーのオスロで開催された上記と同様の浮世絵展において,再び前記系図の入ったパンフレットが発行された。同系図の載っているカタログは歌川派門人会が作成したものであり,同系図は,「FAMILY TREE OF THE UTAGAWA SCHOOL」と題され,歌川派の系図を英文表記したものであり,二代国鶴を示すKUNITSURUUから旧控訴人を示すTOYOKUNIYまで細い黒線で結ばれて歌川派の流れを表しているが,被控訴人を示す「SHOKOKU」等歌川派門人会のメンバー(会員)のアルファベット表記の名が太い黒線で結ばれ,注釈として,*notes.━ lines: member of the Utagawa Society(━が太い黒線を示して歌川派門人会のメンバーを表示する。)と記載されており,歌川派門人会員名が歌川派の系図に付加された内容となっている。そして,KUNITSURUUとTOYOKUNIYとを結ぶ細い黒線の末尾のTOYOKUNIYの記載の最前部とSHOKOKUの記載の中央部とが太い黒線で結ばれている。
そうすると,同系図に記載された師弟関系の表示の例にならうと,KUNITSURUUとTOYOKUNIYとが直接細い黒線で結ばれているように,KUNITSURUUとSHOKOKUとが直接細い黒線で結ばれてTOYOKUNIYとSHOKOKUとが並記されているとか,少なくとも,KUNITSURUUとSHOKOKUとが直接細い黒線で結ばれていると,KUNITSURUUとSHOKOKUとの師弟関系の表示といいうるが,KUNITSURUUとTOYOKUNIYとを直接結ぶ細い黒線が二代国鶴を示すKUNITSURUUと旧控訴人を示すTOYOKUNIYとの師弟関系の表示していると考えられるのみで,同黒線の末尾のTOYOKUNIYの記載の最前部とSHOKOKUの記載の中央部とを直接結ぶ太い黒線は,上記注釈に従うと,TOYOKUNIYとSHOKOKUとの歌川派門人会のメンバーとしてのつながりを示す線と解釈されるといえる。
したがって,同系図の上記記載は,これにより被控訴人が二代歌川国鶴の門人であるかのように誤解を受ける余地もあるといえるものの,被控訴人が歌川派の系譜をひく二代国鶴その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示するものとは断定できず,違法とまでいえないから,控訴人の主張は認められない。
よって,控訴人の上記主張の不法行為に基づく損害賠償請求権は認められない。
5 争点5(支援協力契約に付随する義務違反) 控訴人主張が認められないことは,次に付加するほか,原判決53頁10行目から54頁末まで記載のとおりであるから,ここに引用する。
控訴人主張事実には,甲66,68,83,106,107,165,証言が沿い,前記のとおり,訴外は,平成2年10月28日頃,旧控訴人に被控訴人を紹介し,その際,「歌川派」復興の話が出,被控訴人の推薦により門人となった者が構成員となって,歌川派を復興することを目的とした「歌川派門人会」が発足し,平成3年に事務局ができ,平成5〜6年に規約ができ,被控訴人が平成8年まで会長をし,展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担したことが認められるが,平成2年11月初めころ,被控訴人が,旧控訴人に対し,「あなたの歌川派は衰退しつつあるので,今後,あなたの活動を支援して,歌川派の復興をお手伝いしたい。私は,後援者になるけれども表にはでません。」と約したことにより,旧控訴人・被控訴人間には,被控訴人が旧控訴人を家元として入門者を迎えたり,門人の中からさらに歌川姓の雅号を授与するなどの活動をしている歌川派を支援し,旧控訴人の活動に協力するという支援協力契約が成立したとの主張事実については,上記証拠中にこれに一部沿う部分があるものの,同主張事実全てを認めさせるには十分でなく,上記認定事実を併せ考慮しても同主張事実全てを認めることはできない。
よって,控訴人の上記主張に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は認められない。
6 争点6(絵画代金) 控訴人主張が認められないことは,次に付加するほか,原判決55頁4行目から58頁6行目まで記載のとおりであるから,ここに引用する。
控訴人主張の売買のされた平成4年当時に既に発足・活動していた「歌川派門人会」は,平成3年に事務局ができ,被控訴人が会長をし,展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担し,浮世絵を販売し,「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面の各受領者個人が被控訴人の秘書的立場にあるに交付した各100万円の金員及び「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書についての各300万円の金員をプールしたものが浮世絵の購入代金の支払い等の一部に充てられたのであることをも考慮すれば,買い主は「歌川派門人会」であることが窺われる。そして,「歌川派門人会」が法人格を有しているとはいえないものの,被控訴人自身を意味すると断定することはできない。
よって,控訴人の上記主張の絵画代金請求権は認められない。
7 結論 よって,原判決は正当であり,本件控訴は理由がなく,また,当審予備的追加的請求も理由がないから,主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成14年5月10日)